桜井ロータリークラブ

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卓話  私の職業について  藤井紀幸会員 2023年1月17日

高校卒業と同時に父の家業の手伝いをしていたので、外の世界をみたことがなかった。当時の私は、友人や周りの方がニッカポッカを着て、夕方ドロドロになって帰ってくる姿をみてかっこいいなと思っていた。そして、父とけんかをしそして、とび職の世界に入った。とび職の世界は、大変だと思ったが、負けたくないという気持ちもあってがんばった。  ここにいる皆様は、とび職についてあまりご存じないと思ったので、今日は、とび職について話します。

とび職の起源・・江戸時代8代将軍徳川吉宗の頃が始まりだといわれている。その当時のとび職は、火消しと大工であった。とても華やかな世界だったということだ。

なぜ「とび」というか・・昔、火消しは火事がおこっている家の横の建物に火が移らないようするためにその横の建物を壊した。壊すとき、長い棒の先にトンビのくちばしのような金具がついたもので火を消し、その金具をとび口というのでそこからとび職という名前をとったといわれている。

この写真は、山口県の会社さんから借りたもので、これは、日本とび連合会の方が作られた。今もとびの文化を守っていこうと尽力しており、その思いが込められている。

 

東京タワーについて

東京タワーが着工されたのは、1957年6月29日。約1年3カ月から1年半で完成させられた。桐生五郎氏が当時25歳の若さで60人のとび職の先頭に立って若頭となり、指揮をとった。その当時は、皆、命綱なしで、作業を行った。風速15mまでの中では作業しなさいという指示があったそうだ。約22万人の職人さんの中で1名が61mの高さから転落して亡くなった。命綱のない状況で、1名以外死亡者をださなかったことはすごいことだと思った。東京タワーは鉄骨塔。鉄骨をつなぎ留めるためのボルトがある。そのボルトを800度まで溶かして、長い時には20m上空まで火ばさみで職人さんがなげ、それをバケツで上にいる職人さんが受け止め、ハンマーで打ち込む作業が行われた。これを「死のキャッチボール」と呼んだ。

その当時、東京タワー建設に携わられたとび職の末裔の方とお会いして話を聞いた。家系すべてがとび職しかしてはダメという厳しいルールがあるそうで、お孫さんもとび職をされていたが1年ほどで嫌になって現在、別の仕事をされている。私も東京タワーを見たとき、このタワーを命綱なく建てたのはすごいなと思った。

安全第一といわれる昨今、従業員の命を守るため、安全に心がけ、とび職にほこりをもちつつ、日々、格闘して成長していきたいと思っている。

本日は、ご清聴ありがとうございました。