卓話
道村佳代子会員(紅茶研究家)
オードリ・ヘプバーンの映画「マイ・フェア・レディ」の最後の場面は、大変有名ですが、私はその場面の部屋に置かれている紅茶のセットに大変興味をもちました。それが、紅茶と本格的な交わりの最初です。紅茶って、奥が深いのです。クイズを交えながら紅茶のすばらしさの一片をお話しいたします。
・・・・・・・紅茶クイズ・・・・・・・・
① 麦茶はお茶ですか?
はい いいえ
答え:いいえ
解説:お茶と言えるのは学術名:カメリア・シネンシスで作られたもののみです。
それゆえ、麦茶や柿の葉茶などは「茶もどき」です。
② 本茶は緑茶ですか?
はい いいえ
答え:いいえ
解説:日本で作られるお茶は日本茶。インドで作られるのはインド茶です。
③ 紅茶はイギリス茶?
はい いいえ
答え:いいえ
解説:中国茶は青茶(烏龍茶)、黄茶、白茶、緑茶、黒茶(プアール茶)、紅茶、花茶(ジャスミン茶)、の7つに分類できる。製法の違いで分けている。
④ 日本茶と紅茶の木は同じですか?
はい いいえ
答え:はい
解説:緑茶もウーロン茶も紅茶も同じ木です。向き不向きはありますが。
⑤ 中国からヨーロッパにお茶を運んでいた船の中で発酵して紅茶が出来た?
はい いいえ
答え:いいえ
解説:16世紀、烏龍茶に近い発酵度の高い「ボーヒティー」がつくられ、このお茶が紅茶の原点で、緑茶に比べ安く手に入れやすかったことと、砂糖やミルクえを入れて飲むヨーロッパ人の飲み方に合っていたため需要が増してきた。やがて完全発酵した紅茶が主流となった。
⑥ 一人あたりもっとも紅茶を飲むのはイギリス人?
はい いいえ
答え:いいえ
解説:イギリスではありません。実はアイルランドです。一人当たり年間消費量3kgです。2位はイギリス。日本では、お茶類を合わせて1kg。紅茶だけでは130gです。
⑦ イギリスのミルクティーはよく知られていますが、ロイヤルミルクティーといわれる?
はい いいえ
答え:いいえ
解説:イギリスでロイヤルミルクティーと注文しても、ティーとミルクが出てくるだけです。鍋で作るミルクティーのことをそのようにいうのは日本だけです。
もし、鍋で作ってほしいなら、インディアンミルクティーとかチャイとといえば、作ってくれます。
⑧ 世界で初めてお茶を飲んだ人は、秦の始皇帝である?
はい いいえ
答え:いいえ
解説:古い神話によれば(紀元前2737年)農業と医薬の租といわれている「神農」が世界ではじめてお茶を飲んだ人と言われている。
ある日、生水は体に悪いので、木の下で湯を沸かしていると、その木の葉が散って、その湯に落ちた。それを飲んだところ、いい香りがした。それが野生の茶葉だった。とっさに仙薬と見抜き、その後医薬を見つけるため野草をためし、その毒消しにお茶を飲んでいたといわれる。(中国5000年の歴史からの話なので・・・?)
もう一つの伝説は、達磨大師が修行中に、眠気にどうしても勝てない。そこで、この瞼さえなければ・・・。という事で、まぶたを切ってすてたところから、生えてきたのが茶の木と・・・?
⑨ ヨーロッパではじめてお茶が運ばれた国は?
1.イギリス、2.オランダ、3.イタリア
答え:2
解説:茶貿易の先陣はオランダ、ポルトガル!イギリスではない。
優れた航海術を持つポルトガル、オランダは、アフリカの喜望峰を回り、インドへ到達、マレー半島、中国、日本にまで進出してきた。目的は東洋の香辛料や珍しい財宝をもとめ交易をつづけていたが、一歩先んじていたポルトガルは1557年にマカオに交易基地を設け、ヨーロッパ人として最初に日本の地を踏んでいる。しかし、主な交易の関心は香辛料などで茶ではなかった。
17世紀にはいり、ヨーロッパでは茶に関心が高まった。
実際茶を買い付け、普及させたのはオランダである。
1610年、オランダ人はマカオと平戸から緑茶を買い、自国領だったジャワのバンタムに送り、そこからオランダのバーグに送った。
⑩ イギリスを紅茶を流行させたひとは?
1.エリザベス女王 2.ビクトリア女王 3.キャサリン女王
答え:3
解説:1662年イギリスのチャールズ2世のもとへ嫁いだポルトガルの名門ブラガンザ家のキャサリンは、「ティー・ドリンキング・クイーン」と呼ばれる。イギリスへ喫茶の習慣を持ち込み、紅茶がイギリスに広めた人です。婚礼道具として「ティー・キャディ」がある。貴重品として扱われた茶は、「ティーキャディ」と呼ばれる入れ物に保管され、茶を持っていることは権力や富の象徴でもあった。
ちなみに彼らの結婚は政略結婚で両国の利益のためにチャールズ2世のもとに嫁いだのである。
⑪ さとうと銀が同等の価値があった?
はい いいえ
答え:はい
解説:チャールズ二世婚姻の時、イギリス王室は嫁いでくるポルトガルのブラガンザ家に持参金として銀塊を求めたが、彼女は銀ではなく砂糖を持ち込んだというエピソードもある。当時砂糖は銀と同等の価値があった。
また、持ち込まれた茶は、貴族や裕福な階級の人々の間で人気を呼び、特に日本から伝わった抹茶の飲み方や茶道が珍しいものとして紹介された中国の茶碗も茶と一緒に披露された。
⑫ 紅茶を飲むときのカップに取っ手はついていた?
はい いいえ
答え:いいえ
解説:紅茶とともにはこばれる中国茶器でのまれていた。そのことが貴族のステータスでもあった。しかし、中国、日本製の茶碗には取っ手がないのできっと熱くて持ちにくい、のちに、取っ手をつけた紅茶カップが誕生した。
冷ます目的か抹茶を真似てか、受け皿に移して大きな音を立てて飲まれた。さらにもう一つの説では高価なお茶をのんでいることを周りにも知らせためとも。さらに、高価なジャワからの砂糖をいれ、高価なサフランもそえ、独自ののみかたも作られていった。茶の人気から1690年にはジャワに茶園を開き、中国よりも近くから容易に茶を本国に持ち込めるようにした。その結果、庶民にも広まりヨーロッパで最初の「茶が広く飲まれる国」となった。1650年代にはオランダは、フランスやバルト海沿岸諸国へ茶を売ることをしていた。その頃から、海洋貿易の力はポルトガルからオランダに移り、オランダの東インド会社が、東洋諸国との貿易で独占的に利益を上げることになる。
本拠地はジャワのバタビア(今のジャカルタ)であった。
⑬ 円筒形の優雅なメリエールは紅茶用のポット?
はい いいえ
答え:いいえ
解説:もともとはコーヒ用のポットです。
⑭ イギリスで、お茶は薬として売られていた?
はい いいえ
答え:はい
解説:オランダに50年遅れて、1657年、ロンドンのエクスチェンジ・アレーにあったコーヒーハウス『ギャラウェイ』で初めて茶が売り出された。売り出しのポスターは、大英博物館に保管されている。内容は、「古い歴史や文化を誇る国々は東洋の茶を、その重量の2倍の銀で売り出されている」と、高価さをまず、うたい、茶の効用について、頭痛、結石、水腫、壊血病、記憶喪失、頭痛、下痢、怖い夢などの症状によく効く。ミルクや水をお茶と一緒に飲めば肺病予防になる。整腸作用、万病に効く東洋の神秘薬と紹介されている。
⑮ シルクロードとともに「ティーロード」はある?
はい いいえ
答え:はい
解説:中国から世界中に伝えた[CHAの道]は「ティーロード」といわれる。
四川省あたりが起源とされているお茶が世界に伝わったのはお茶ですが、同時にその呼び方も伝わった?ティーロードは2通り考えられて
いる。広東語で[CHA]、チャに近い呼び方をたどるとインド(CHAI)、チベット(JA)、日本(CHA)、ペルシャ(CHA》トルコ(CHAY)、トルコ(CHAV)、アラビア(CHAI)、ロシア(CHAI)
・・・陸路で伝わった国とされる
福建語では「TAY」テ。これに近い呼び名はインドネシア(TE)、オランダ(THEE)、イギリス(THE)、フランス(THE》、イタリア(TE)、ハンガリー(TE)、フィンランド(TEE)、スリランカ(THEA)・・・海路で伝わった。
⑯ いまや人気のアフタヌーンティー、優雅な習慣である?
はい いいえ
答え:いいえ
解説:ロンドンから北に約100kmのべドフォードシャーに400年も引き継がれているべドフォード公爵邸がある。現在は14代目が当主である。紅茶では7代目の公爵夫人アンナ・マリ(1788~1861)を忘れてはならない人である。というのは、彼女こそ『アフタヌーン・ティー』の習慣を始めた人なのである。
その頃の貴族の食生活は盛りだくさんのブレックファストとランチはパンとフルーツなど軽いもので済ませていた。夜は晩餐というにふさわしい社交の場で、音楽会、観劇の後にとり、19世紀に入ってからはさらに遅く、夜の8時ごろ。ランチからディナーまでの間の空腹はかなりの苦痛。
この空腹の苦痛をやわらげるため、こっそりとベッドルームに運ばせた「バター付のパンと紅茶」が始まりといわれている。
その後、午後3時から5時ぐらいに訪ねてきた婦人たちと、ベッドルームでなく「ドローイングルーム(応接間)」でお菓子と紅茶を楽しんだのである。
⑰ アメリカ独立のきっかけは紅茶だった?
はい いいえ
答え:はい
解説:アメリカが独立戦争を起こしたきっかけとして知られるのが「ボストン茶会事件」(ボストンティーパーティ)と呼ばれるものという事は知っていても、なぜ茶会が?という具体的な史実を知る人は少ないかも。この茶会事件とはまさに紅茶をめぐって起こったことなのだ。1711年頃から約100年の間、人気の高まった紅茶に対するイギリスの税率はひどいもの。実に125%から200%まで引き上げられたりした。この税収でイギリスは海軍強化、植民地を増やしていった。もちろん民衆がこの税制に納得するはずもなく不満が膨れ上がった。
とくにアメリカは、繊維や工業品に次ぐ量の紅茶が東インド会社を通じて取引されていたので、その紅茶に重税をかけられれば、いくら植民地と言っても黙ってはいられない。安い密輸茶が出回るようになり、在庫過剰になった紅茶を東インド会社はアメリカに売りつけるためティーアクト(茶条例)が1773年、イギリス政府から発令された。
この一方的な取引に怒ったアメリカ群衆は、アメリカインディアンに変装して紅茶を積んできた船の積み荷を、海に捨ててしまった。その捨てた紅茶の量が非常に多く、ボストンの海が紅茶色に染まったといわれる。これがボストンティーパーティーと呼ばれる事件の概要である。この事件は各地に広まり同様の暴動が起こった。そしてついに1775年のボストン郊外の発砲事件をきっかけに独立戦争へと拡大していったのである。