本日は北河原パストガバナー、中川パストガバナーをはじめ、ご来賓の方々、各クラブからたくさんのロータリーアンのみなさま、ソロプチミストの方やたくさんの一般の皆さまもお越しくださり、ありがとうございます。先ほど、植村会長よりご紹介がございました通り、私にとりまして桜井ロータリークラブはとても懐かしいところでございます。私とはたいへんご縁の深い桜井クラブでお話をさせていただきますことに感謝申し上げます。
私は、49歳の時にガバナーを拝命いたしました。20代から30代の終わりまでは青年会議所に属しておりまして、青年会議所の京都の理事長を務めていた時に、京都南クラブの大倉会長のもとで幹事もしておりました。青年会議所の理事長をやりながら、同時にロータリークラブの幹事をするというのは、本当に大変なことでございました。その時、会長から「これ読んどいてや」と渡されたのがロータリーの手続要覧。当時は今のような日本語訳ではなくて辞書を引きながら勉強するのですが、書いてあることは眠くなるようなことばかり。「ロータリーって、何でこんな難しいことを書いてあるのだろうか?ロータリーって何ぞや?」と思いました。そのような勉強をしたことが、私をロータリーにはめ込んでいくのですが、役職を経るごとにロータリーを理解できるようになって来た気がします。父が亡くなってから京都ロータリーに移籍し、今も、京都南クラブでは名誉会員ですが、合わせてロータリー歴64年。何度も辞めようと思いましたが、そのうちにどっぷり足がつかりこみ、自分の日常生活がロータリーそのものになっている感じがします。
桜井ロータリークラブができましたのは、私がガバナーの時に、先輩のパストガバナーから「桜井にロータリーができそうだからクラブ設立をしてみよう」と言われ、ご尽力もいただきました。話はすんなり進み、認証書も私の年度中に渡すことができました。チャーターメンバーでは藤本さんが現在も在籍と聞いております。当時のことを思いますと感無量でございます。奈良では「桜井」のほか、「生駒」、京都では「紫野」「京都西北」、滋賀の「長浜東」、私の年度で5つロータリーを創ることができました。2650地区は、今では100クラブ近くあり、世界の中でも優れた地区であると、いつも国際ロータリーからお褒めを頂いております。
今年度のマロニー会長は、私にとってご縁がある方で、2004年、大阪で国際大会があった時に、私は大会の委員長をしており、その時に初めて出会いました。その年度のRI会長は、ロータリーが100年を迎える前に出た、初のアフリカ出身の会長のマジアベ会長でした。彼は私とは同期のRI理事で、とても素晴らしい人ですが、そのマジアベ会長の「エイド」をしたのがマロニー会長でした。大阪に来て、色んな意味でマジアベ会長を補佐されました。今年、11月には神戸の研究会にも来られる予定です。
現在、日本は国際ロータリーの中でアメリカに次いで非常に大きな評価を得ています。私は日本財団の理事長をしておりますが、ありがたいことに、毎年14-15億円の拠金を法人、個人の会員からいただいております。平和のためのプログラムで、特に日本は7か国の中の主たる国として、国際基督教大学が受け皿になり、世界各国から30名からの奨学生を受け入れています。この30名はすべて、将来平和のための機関で活躍をしてもらうという素晴らしいプロジェクトであります。3年間日本で学んでいただく間の生活費、奨学金、その他の費用に皆様からの拠出金の一部を当てさせていただいております。
先日、東京西クラブで講演をし、質疑応答の時間の時、ロータリー歴5年の会員さんより「一体ロータリーとは何なのですか?」と質問がありました。その会員さんによれば、「入会時に、『あなたは職業を代表して入会するのだからプライドを持って入会してほしい。』といわれた。しかし、いったいそこで何をするのか?ロータリー情報委員会から『あなたの職業を通じて奉仕をするのだ』と教えられ、そして、ロータリーとは『1.奉仕、2.親睦、3.自分自らを磨く場所』であると教えられた。しかし、会員になった後、自分がやってきたことと言えば、5年間、クラブの例会に参加し、食事が終わったら帰るだけ、一体、奉仕は、どこでやっているのか?もっと言えば、奉仕が何なのかわからない」というのです。これは多くの方々が同じ気持ちを持っていらっしゃいます。
私が今、手にしているのは1927年発行の週報で、ちょうどそこには「ロータリーとは何ぞや?」ということについて書かれています。それによりますと、
1.ロータリーとは、種々様々な職業を持った人が集まり、一様に統一制定された理念・理想を目的とする。
2.ロータリーとは、少しでも友人をつくり、お互いに理解しあってその友人と共に奉仕をする。
3.ロータリーとは、常に精神的な活動を保持することによって、自分たちさまざまな思想を持っていても、一つの「奉仕」という信念を養うこと。
4.ロータリーとは、我々の通有性である利己心を捨てること。
5.ロータリーとは、例会に出席することである。例会に出席すれば、ありとあらゆる人と交際する。それによって自分の立場が理解できるだろう。
と書かれています。
大変難しいことが書いてあって、今でいうと、少し的外れなところもあるかもしれませんが、この頃のロータリーはエリートで限られた人のみが入れる集団でした。私がガバナーの時には、入会には14段階のステップがありました。1.職業を代表して入ってもらう、2.その職業での立場、3.その職業を通じて世の中にどれだけ貢献できたか、4.テリトリー内に事業所あるいは住居を持っているか…等々です。しかし、今は、多様性(diversity)ということが言われるようになり、一つの職業でも細分化して、同じ職業でも2つ、3つに分けて入れるようになって、14段階のステップというものはなくなりました。今は、「その地域に住んでいて、ロータリーに入れる人格・識見を持っているか」だけが入会の条件になっていて、皆さん方の大半はそういうステップでロータリーに入って来られております。ですから、ロータリーで一番大事なことは(難しい理念や職業分類がどうかいうことではなくて)「奉仕」ということになるのだと思います。
「奉仕」についてですが、米山梅吉さんが、100年前にロータリーを日本に持ってこられた時一番困られたのが、「サービス(Service)=奉仕」を日本人にどのように理解してもらえるかでした。欧米は、宗教はキリスト教が中心です。毎週教会へ行ってお祈りをして、自分が働いた浄財を、自分より少しでも気の毒な人のために、神の思し召しで「ドネイション(Donation)」をする。この「ドネイション(Donation)」が「サービス(Service)=奉仕」になるわけです。ですから、多くのキリスト教徒のロータリアン(ポール・ハリスもそうですが、)にとって「奉仕」は身近なものであって、大げさなことを考えていたわけではないのです。
ポール・ハリスは田舎出の弁護士で、寂しいから友達をつくろう、そして友だちと共に、暗黒の街シカゴを少しでも明るい街にしようと考えました。そこで4人が集まりロータリーを創ったわけですが、その時には「奉仕」などという大げさなことを考えていたわけではありませんし、そんなことは、ポール・ハリスの自叙伝にも書いてございません。最初は、「親睦・友情」を基に、そこから始まったのです。だんだんグループが大きくなるにつれて、「せっかく集まっているのだから、何か世の中のために良いことをしようではないか」ということになり、そこで初めて「奉仕」という言葉が出てきたのです。ポール・ハリスが初めて「奉仕」という言葉を使いだしたのは10年後です。そして、最初にした奉仕は、シカゴの公園の公衆トイレの設置で、そこから始まったのです。
これが広がって、「奉仕」の原理原則は、自分の「職業」を通じてすることであり、そして、その職業については「ボケーショナル(Vocational)=天職」という言葉を使ったのです。天から下さった仕事なのであるから、当然に仕事に対して自分の身を投じなければならない。そこにロータリーの生まれた意義の哲学がでてきます。自分の職業に身を捧げる、「デディケート(Dedicate) 」するという言葉になります。「デディケート(Dedicate)」とは「自分の身を捧げる」という意味で単なる「ドネイション(Donation)」とは違います。自分の身をささげ、自分の職業を全うしていく。自分だけが儲かったらいいのではではなく、自分と共に働いている人たちが、それぞれ至福でなければならない。そのためにトップの人は、みんなのために考え、想い、自分を犠牲にして人一倍努力をしなければならいない。人一倍努力をすることが「ヴォケーショナル(Vocational)」なのです。ロータリーでいう「職業」とはそういう定義なのです。ですから、米山さんは、ロータリーに入っている人たちは皆、そういう定義で「職業」を代表して入って来てもらっている人たちですから、「サービス(Service)=奉仕」を異論なく実行していただけると考えていたのではないかと思います。
一方、米山さんは、日本のロータリーは、丸々アメリカ式のロータリーではいけない、アメリカ式の中にも、日本の「奉仕」の精神は一家言の意義があると考えたに違いないと思います。それは何かといえば、「布施」なのです。釈尊の仰せになった「無財の七施」はとても大事な教えで、お金だけで「布施(ほどこし)」ができるのではなくて、皆さん方の身体全体で布施をすることが大事だということで、これが先ほどの「デディケーション(Dedication)=身を捧げる」と同じなのです。
「無財の七施」。まず最初に「眼施(げんせ)」。優しい眼差しですべてに接すること、仏様の目の包容力に接すると自然に皆が手を合わせる、そのようなやさしい目で人に接することです。次に「心施(しんせ)」。例えば募金箱が回ってきた時に、ただお金を入れたらいいというのではなく、災害に遭われた方の痛みを自らのものとして「一日でも早く復興してください。心を癒してください。」と祈りを込めて募金することができているでしょうか?祈りを込めた寄付は尊いものになる。ロータリーの寄付はそれでないといけません。「させていただける」というこころ、これが私は「心施」の大きなことだと思います。また「身施(しんせ)」」は身体全体を使って奉仕することです。今日、ここに来た時、橿原神宮の参道を掃除していた奉仕者たちがおられました。ロータリーもライオンズもソロプチミストもみんな、そういった活動をしています。残念ながら、「ロータリーは、偉い人の集まりやからお金出して当たり前や」というイメージがありますが、それを払拭しなければなりません。そのために、「私たちは、みんなと一緒に活動している」ということを知ってもらえれば、ロータリーはもっともっと世間の人に理解してもらえると思います。
身体を使い、眼を使い、心を使い、言葉の情けを持つこと(=「言辞施」やさしい言葉を使うこと、思いやりを持った態度と言葉を使うこと)、にこやかな顔をし(「顔施」=いつも穏やかに、和やかな顔つきをもって人に接すること)、そうすることによってロータリーの人たちは「ロータリアン」になると思っています。毎週、例会会場に入ってくる時よりも例会終了後には、少しでも心の中の「ゆとり」が増えて「ゆったりした気持ち」になってこそ、例会は私たちの生活に大きく役に立つものになってくると思います。例会で、にこやかな顔で会長が「よく来てくださいました」といってくだされば、「今日も来てよかったな」という気持ちになれるでしょう。ロータリーのエンブレムを着けたら誰もが一緒です。外では違った仕事をしていても、例会場に入ったら皆一体になる。「All Together」の気持ちを持ってこそ「布施」の精神が生きてくるのです。また、大きな教えとして、「壮座施」だとか「房舎施」といって、自分の座っているところを譲ったり、自分の居場所を譲ったり、いうのは簡単でも、なかなかできない難しい教えもあります。
最近は、老人や若い世代が一緒に生活するということが少なくなってきました。しかしながら日本には「日常茶飯事」という言葉もあり、「茶の間」で「卓袱台」を囲んで、家族がみんな肩を寄せ合って、思いやり合いながら暮らしてきました。「感謝の気持ち」を言えることは普通の家庭でも大事なことです。お母さん(奥さん)が作ってくれた料理に感謝していただく、自分が作ってでも感謝する、「感謝の気持ち」を忘れたら「ロータリアン」ではないと思っています。
会費を払っているから、クラブの例会に参加できて当然ですが、ロータリーはクラブがあってこそのもので、クラブの集合体が「ディストリクト(district)=地区」で、その地区を統治するのがガバナーです。ガバナーはその時のRI会長の趣旨を受けて一年間指導されます。その中で、職業を通じて集まった皆さん方は「親睦」「友情」「奉仕の理念」などを学んで行っていただき、「布施」≒「サービス(Service)=奉仕」に「自分の身を投じる」すなわち「デディケート(Dedicate) 」するということ、これがロータリーで大事なことです。
たった1時間の例会では親睦の時間はなかなかとりにくいのですが、それを補う意味でもいろいろな同好会があり、親睦の機会を設けておりますが、それにも参加しない人たちはあります。しかし、みんなが同じように「親睦」し、同じように「友情」を深めていくということをしなければ、ロータリーの「奉仕」の目的を達成することはできません。
ポール・ハリスが言っていたように、初めは一人一人が奉仕の理念を持っていて、出発はI serveであり、でも一人ではできないのでWe serveの精神が生まれたのです。
皆様、どうか例会を楽しんで、お互いの職業を尊重、理解し、助け合ってください。そういうところにロータリーの「共同精神の理念」を見出せば、ロータリーの将来はあると思います。
ご清聴ありがとうございました。
(文責:内田リカコ)